クルマとバイクに明け暮れた青春時代
組田龍司(以下、組田)は1967年、神奈川県横浜市で生まれた。育ちも横浜の生粋の浜っ子である。
この時代の若者には珍しくはないが、クルマとバイクをこよなく愛し、愛車を改造しては峠を走り、それを生き甲斐として日々暮らしていた。
走り屋なら誰もが抱くレースへの憧れも持ち続けてはいたものの、具体的な行動を起こしたのは、自動車メーカーに勤める社会人として、それなりの収入を得られるようになった22歳の頃。意外に遅かった。
地元横浜でレースに参戦しているショップへ行き、レースに出るにはどのくらいの費用が必要なのかと尋ねた。当時、富士フレッシュマンレースにS13型のシルビアクラスが新設され、それに出場することを考えていた。
ところが、ショップから提示された額は「当時の給料では到底支払えるものではなかった」と、ここで膨らんでいたレース参戦の夢はあえなく萎んでしまう。借金をしてまでやることは考えず、俺には無理だとあっさり諦めてしまった。今ならレーシングカートから始めるのかもしれないが、当時の組田はその存在すら知らなかった。
屏風浦工業の若き社長へ
時をほぼ同じくして、組田の父が創業した屏風浦(びょうぶがうら)工業にピンチが訪れる。父が癌を患い余命宣告されてしまったのだ。会社の経営に携わっていた父のブレーンからは後を継いでほしいと懇願され、組田は弱冠22歳にして経営のトップに就くことになる。
ちなみに屏風浦工業というやや古風に思える社名は、創業の地、横浜市磯子区の地名である。主な業務は、自動車メーカーが開発する新型車両(試作車)の部品製造である。
そこからの苦労は筆舌に尽くしがたいものだったようだ。中小企業は社長個人の信用、人脈で成り立っているものだということを思い知らされたという。もちろんレースに費やす時間はなく、社業に専念することになる。
「20代前半から30代半ばまでの経験は、ものすごく辛かったですが良い経験でした」と組田が語るように、そこで培われた反骨心とビジネスセンスは現在のレーシングチーム運営でも大いに発揮されている。
社長就任当時から組田にはぶれない思いがある。それは会社に世襲制は持ち込まないということだ。当時、自身が何の苦労もせずに会社を継いだことに後ろめたさがあったという。「一生懸命やっても上に上がれないのではやる気を失う。誰にもチャンスはあるようにしたい」と、今は日々社員を鼓舞し、その中から優秀な人が出ることを願っている。
この誰にもチャンスを与え、育てるという考え方も、レーシングチームの運営に生きている。
→(3)に続く Text: Shigeru KITAMICHIPhoto: Motorsports Forum
Shigeru KITAMICHI
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