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Formula Nippon

FN:第7戦鈴鹿 名車デモランでノバ532Pが鈴鹿を走る

 11月4日、フォーミュラ・ニッポン最終戦の行われた鈴鹿サーキットで往年の名車デモ ンストレーションランが行われ、ノバ532PとローラT98がコースを走行した。

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 デモンストレーションランはフォーミュラ・ニッポンのレース1とレース2の間、ピットウォーク時に行われた。当時のドライバーだった星野一義がノバ532Pに、野田英樹がローラT98/51に乗り込み東コースを3周した。ノバ532Pは和歌山のコレクターが所蔵。50周年イベントに続いて鈴鹿サーキットを走るのは2度目となった。

■ノバ532Pとは

 1970年中盤から後半にかけて、当時のトップフォーミュラだったF2000/F2はマーチ、シェブロン勢などの外国製シャーシーにノバエンジニアリング、コジマエンジニアリングなどの国産シャーシー勢が戦いを挑んでいた。

 ノバは1974年、シャーシーが解良喜久雄、ボディーワークが由良拓也で国産のF2000、ノバ02を制作。その後継となる、ノバ512以後のシリーズはシャーシーが宮坂宏、ボディカウルは引き続き由良が担当した。そしてマシンは512B、522と発展してゆく。前2桁は昭和の年号だ。

 1977年11月、F2000最終第8戦の鈴鹿JAFグランプリ、今回鈴鹿をデモランした、ノバシリーズの最新マシン532Pが星野一義(ヒーローズレーシング)のドライブでデビュー。GCマシンで成功を収めた由良が「前後タイヤ間を埋めてスポーツカーに近いフォーミュラを目指した富士・鈴鹿スペシャルの集大成」というマシンは華麗なフォルムで注目の的となった。

 レースは現役F1ドライバー、リカルド・パトレーゼ、後にF1に乗ることとなるディディエ・ピローニ、ケケ・ロズベルグ、ステファン・サウス、後のインディーカーチャンピオン、ダニー・サリバンなど並み居る強豪を押しのけ、ノバ532Pを駆る星野一義がデビュー戦で予選からいきなりポールポジションを獲得。ポテンシャルの高さを証明した。

 しかし決勝は雨。後方スタートのピローニが序盤からレースをリードするもマシントラブルでリタイア。代わってトップに立ったのがシェブロンB42のパトレーゼ。2位に付けていた星野はパトレーゼを追い切れずそのままレースはゴールを迎えた。

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 翌1978年F2シリーズ初年度、ヒーローズレーシングは星野に加え2年目の中嶋悟にも532Pを与え、2カー体制で参戦することとなる。3月の第1戦鈴鹿ビッグ2&4では星野がポールトゥウィン。続く5月の第2戦富士JAFグランプリでも星野がポールトゥウインとノバ532Pはいよいよその真価を発揮することとなる。

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 そして5月の第3戦鈴鹿フォーミュラジャパンレース。予選でポールポジションを獲得したのは星野ではなくチームメートの中嶋悟。中嶋はレースでもそのまま逃げ切り自身初のトップフォーミュラで優勝を飾ることとなる。星野対中嶋の伝説が始まった瞬間でもあった。

 好調ノバ532Pはこのレースの後、星野とともにヨーロッパF2に遠征。本場ヨーロッパに挑む532Pに日本中のレースファンが注目したが、遠征は苦戦の連続。初戦のフランス・ルーアンでは予選1回目に雨の中、いきなり2位につけヨーロッパ勢を驚かすことになるが、ドライの決勝では、富士・鈴鹿スペシャルのマシンは石畳の公道サーキットではグリップせず、競争力を発揮することはできなかった。

 ヨーロッパ2戦目はイギリス・ドニントン。ここもテクニカルコースのため富士・鈴鹿スペシャルの532Pではセッティングの幅が狭く苦戦。結局、決勝ではドライブシャフトが折れてリタイア、「ヨーロッパで全否定された」と由良が語る遠征は2戦で終了することとなった。

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 日本に戻ったノバ532Pと星野は7月のF2第4戦鈴鹿ルビートロフィーに出場。ここでは練習走行中にノバ513Pをデグナーでクラッシュさせ、ノバ512Bを持ち出し予選でポールポジションを獲得するものの決勝はリタイアに終わる。優勝はマーチ782のマーク・シュラー。

 しかし、続く9月の第5戦鈴鹿グレート20で星野は再びポールトゥウインを飾り、532Pの日本での戦闘力の高さを証明した。また、このレースでは酒井レーシングから桑島正美が3台目のノバ532Pで出場。結局ノバ532Pはこの3台が作成されたのであった。

 F2第6戦は西日本サーキットで開催されたが、ヒーローズレーシングは出場せず、次戦最終第7戦JAFGP鈴鹿が国産シャーシ対外国シャーシーの決戦の舞台となった。

1978_f2_r07  最終戦は、F2チャンピオンを獲得したブルーノ・ジャコメリがマーチワークスから782で参戦。予選では後に「ジャコメリショック」と呼ばれるようになる衝撃がパドックを走る。なんと、コースレコードを大幅に上回るタイムでジャコメリがポールポジションを獲得し、国産勢はまったく歯が立たなかったのである。しかし決勝ではそのジャコメリがトラブルで後退。国産シャーシー、ノバ532Pの中嶋とコジマKE008の高橋国光との争いとなったが、終盤で高橋が中嶋をかわして優勝した。このシーズン、星野が全日本F2選手権で、中嶋が鈴鹿F2選手権でタイトルを獲得。ノバ532Pがダブルタイトルを獲得する原動力となった。

 翌1979年はノバ、コジマともニューシャーシーは投入せず。星野の所属するヒーローズレーシングなどトップチームはこぞってマーチ792を買い求めた。それでも6月の第4戦富士では、ストレートスピードで利があるとみたヒーローズレーシングがノバ532Pを引っ張り出し、星野のドライブで臨んだが、792勢のフロントウイングを外すという奇策を行った他チームに歯が立たず、ノバ532Pはこのレースを最後にサーキットに姿を現すことはなかった。

 その後、国産シャーシーはF2後継のF3000で童夢、ムーンクラフトが製作したが、1996年から行われたフォーミュラ・ニッポン以後は国産シャーシーは作られていない。新生スーパーフォーミュラも2014年からイタリア製のダラーラシャーシーが採用されることが決定しており、将来国産シャーシーが日本のサーキットを走る日は来るのであろうか?

Text & Photo: Yoshinori OHNISHI


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