全日本F3000

童夢インサイドレポート Rd.5-2

            エイベックス童夢レーシングチーム
   1995年 全日本F3000選手権シリーズ第5戦 レースレポート-2
<日曜日>
「昨日の中古タイヤで走って、まずは1分10秒台に入ること。
 それから新しいタイヤに履きかえれば、1分9秒台は出せる。
 ポールポジションは1分8秒台半ばくらいになるだろうから、限りなく8秒台に近い9秒台を出せればトップ6に入れるはずや」
 2回目の予選を直前にひかえた日曜朝、ピットのすみで中野は松本監督の言葉を思い出していた。
 セミの声が緑豊かなサーキット全体を覆わんばかりに響いていたが、コンセントレーションを高めた中野の耳にはなにも届かない。
 まだ、8時を少し回ったばかりだというのに気温は31度。
 夏の朝は分刻みに気温が上昇するので、なるべく早いうちにタイムを出す必要がある。 8時15分、エンジン音がセミの大合唱をかき消して予選2回目が始まった。
 ベテランも若手選手も待ちかねたようにピット出口へなだれ込み、コース上はタイム・アタックをかけるF3000マシンでいっぱいになる。
 中野も積極的な走りで、5周目には昨日の自己タイムを更新し、ピットに戻ってタイヤの内圧を調整したあと、再びコースへ。あっさり中古タイヤでの目標の1分10秒台にタイムを上げた中野選手は、打合せ通りタイヤを交換しにピットに入ってきた。
 4人のスタッフが大急ぎでタイヤを付け替え、給油する間にも、気温と路面温度はジリジリ上がっていく。
 他のマシンよりひと足早くタイヤ交換を終えて、本格的なタイムアタックに入っていた高木虎之介選手が1分08秒539でラップモニターの最上段に躍り出た、という場内アナウンスの大きな声に、各チームの動きがいっそう慌ただしくなった。
 肩で吸っていた呼吸を整え、松本監督のGOサインを確かめた中野は再びコースへ向かい、3周連続のタイム・アタックで1分09秒530をマーク。
 しかし、それ以後のタイム更新はなく(もっとも他のドライバーも同様だったが)、中野の予選グリッドは10番手に決まった。
 シングル・ポジションを狙っていただけに、チームとしてはこの結果に落胆を感じないではなかったが、柔らかめのタイヤを選んだ同じYH勢の予選トップ、アピチェラ選手が約コンマ5秒差のようやく1分08秒906であることを考えれば、あながちドライバーを責めることはできない。
 だが、そんな少々の落胆など、決勝がスタートしたとたんに吹き飛んでしまったのである。
 ここまでの4戦すべてのスタートでジャンプアップを決めてきた中野だが、今回のスタートはとりわけ素晴らしいものだった。
 シグナル・グリーンと同時のロケット・ダッシュを決め、すばやい加速で1コーナーまでに4台をパス。続く2コーナーまでにもう1台を抜いて5番手に浮上したのである。
 しかも、あちらこちらで起こったマシン同士の接触事故をみごとに避けてだ。
「ホンマ、ええカンしてるわ」とSSRの浅井敬祐氏もモニターを見ながらホレボレしている。
 2周目に入ってすぐ、前を走っていた黒澤琢弥選手がマシン・トラブルでスローダウンし、中野は4番手に浮上。まだタイヤが温まりきらない序盤の3~4周目にただひとり1分12秒台をマークしながら、中野は前を行くアピチェラ選手にぐいぐい迫っていく。
 高木選手から難なくトップを奪っていたベテランの鈴木利男選手が、18周目にまさかの単独スピンを喫し、中野の順位も自動的にひとつアップ。
 そして20周目、1コーナーのブレーキング競争でアピチェラ選手を抜きさった中野はついに2番手に浮上した。
 ところが、この頃から中野のラップタイムは頭打ち状態となった。
 どうやら、早くもタイヤの”危険信号”が灯ったらしい。
 1分12秒台後半から13秒台前半のタイムをコンスタントにマークしているのだが、トップの高木選手はそれよりコンマ5秒は速い1分12秒台前半のタイムで走っているのだから、2台の間隔が縮まろうはずもない。
 中野の後方では、22周目にリタイアしたアピチェラ選手にかわり、その同僚のJ・クロスノフ選手が何とか3番手を守ろうと、迫り来るBS勢の波を必死で押し返していた。「ジェフ、頼むからもうちょっとの間、頑張ってや」と、浅井氏はモニターの中のクロスノフ選手に向かって”拝みエール”を送っている。
 クロスノフ選手が頑張ってくれるほど中野が逃げれるのは事実だが、92~93年の二年間、クロスノフ選手と一緒にF3000を闘っていた浅井氏にすれば、同じYH勢でもあり、クロスノフ選手を応援する気持ちに偽りはない。
 そこへ、コース脇のサイン・エリアにいた松本監督から「Xクンのラップタイムと、信治からXクンまでのタイム差を報告せよ」という無線が飛んできた。
 Xクンとは、ルーキーの山本勝巳選手のことである。まだ新人で名前に馴染みがないことと、そのマシンに描かれた”X”という文字から、松本監督は山本選手のことを勝手にそう呼んでいるのだ。
 見ればXクン、いや山本選手のラップタイムは完全にクロスノフ選手を上回っている。最終コーナーの上り勾配で威力を発揮するクロスノフ選手のDFVエンジンのパワーをもってしても、若武者が放つ底無しのエネルギーと、ますます激しくなるタイヤの消耗に抗することはできない。
 みるみるクロスノフ選手を追い詰めた山本選手は28周目にこれをパスし、次なる標的である中野に向かって突進してきた。
 30周目の時点で約11秒もあった中野と山本選手との差が、1周ごとに目に見えて縮まってくる。何しろ山本選手のタイムは中野よりコンマ8~9秒も速いのだ。
 必死で逃げる中野だが、モニターで大写しになったエイベックス童夢号のリア・タイヤの左右ともに黒い筋が入っているではないか。
 明らかに、タイヤの表面にブリスターができ、いつバーストしてもおかしくない状態になっているのだ。
 松本監督はタイヤ交換の準備を指示しかけたが、困難な状況のなか、1分13秒台で走り続ける中野のテクニックを信じることにした。
 各コーナーを苦しそうに蛇行しながら立ち上がる中野の背後に山本選手が食らいつき、ヘアピンで抜いて行ったのは、ゴールまで残り8周に迫った46周目のことだ。
「何とか抜かれまいとしたが、ヘアピンの進入でブレーキをロックさせてしまった。
 完全に僕のミスです」
 中野の受難はこれで終わったわけではない。今度はM・マルティニ選手が迫ってきたのである。
 レースも終盤に入り、マルティニ選手のBSタイヤもかなり苦しくなってはいたが、バースト寸前の中野の状況に比べればまだまだ元気、ぜんぜん平気である。
 50周目、2台はついにテールトゥノーズとなり、いっきに下っていくバックストレッチで一瞬、サイドバイサイドからマルティニ選手が前に出かかった。
 だが、アウト側のラインを死守する中野は、続く馬の背コーナーの進入で再びマルティニ選手を抜き返し、じょじょに上っていくコース後半部で再び差を広げる。
「馬の背コーナーのイン側の路面はとてもスリッピーだったので、マルティニ選手にしてもそこを通って僕を抜くことはできなかったでしょう。
 次のSPコーナーからのコース後半部は僕のマシンの方が速かったので、馬の背コーナーさえ守れば、あとは抜かれる心配はなかった」
 延々と続くふたりの激しいバトルに、両方のピットからは悲鳴と喚声が交互に起こる。 グランド・スタンドを埋めつくす4万人の観客の目も、2台の闘いに釘付けだ。
 3位表彰台だけは絶対に守ろうと思ったという中野は、巧妙かつ必死のブロックでマルティニ選手の攻撃をシャット・アウト。
 コンマ1秒という僅差で逃げきり、通算18戦目のF3000レースで、中野は待望の初ポイントを獲得。同時に初表彰台に立ったのである。
「92年、オートポリスで童夢F102が初優勝したレースよりも疲れたよ」
 表彰台でシャンペン・ファイトに興じる三人の若手ドライバーの様子を、松本監督は少し離れた場所から嬉しそうに見守っていた。
「ウチの信治もよう頑張ったけど、前のふたりもようやった。
 いいねぇ。こういう光景は。
 これからももっと、若い選手が今日のような良いレースをして、どんどん表彰台に上がって欲しいね」
 今回の喜ばしい結果は、もちろんドライバーである中野の成長ぶりに負うところが大きいが、童夢チームはじめ、ヨコハマ・タイヤや無限エンジンなど、全スタッフの努力があったればこそなのは言うまでもない。
 そして、他のYH勢が次々と脱落するなかで、後ろ2本のタイヤを激しく傷めながらも中野がチェッカーまで走りきった事実に、他シャーシに比べてタイヤに負担をかけない、童夢F104というマシンの優れた性能が改めて証明されたのではないだろうか。
「条件さえ整えば、次はここに座りたいですね」
 記者会見の席上、中野選手は中央の椅子を指してそう言った。
 その椅子への道のりは、まだまだ遠いかもしれない。
 だが、今までより近づいていることだけは、絶対に確かである。
 次戦は9月3日。富士スピードウェイで行われます。



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