LAP1 「希望的観測という逃げ道」
ハンマー伊澤
2026フォーミュラビート開幕戦鈴鹿、予選。
トラブルで、グリーン上にマシンを停めることになった。
レースでマシンが止まること自体は、珍しい話ではない。
接触もある。スピンもある。クラッシュもある。
だが、マシン側が先に音を上げて走りが終わるときは、少し質が違う。
自分の運転でどうにか出来る範囲を越えたところで、唐突に終わるからだ。
デグナーに差しかかったあたりで、大きな異変を感じた。
もう「また何とかなる」という段階ではないと、直感した。
クラッチを切り、安全な場所までマシンを運んだ。
機械にも寿命はある。
生き物にも寿命はある。
だが、機械のほうがドライだ。
こちらの都合など、おかまいなしに終わる。
そして機械には、生き物のような自然治癒力がない。
人間なら、少々無理をしても持ち直すことがある。
傷も塞がる。痛みも引く。
一晩寝れば、少し楽になることもある。
だが機械はそうはいかない。
減ったものは戻らない。
削れたものは削れたままだ。
傷んだ箇所は、こちらが見て見ぬふりをしても、そのまま傷んでいく。
今回の件も、不運の一言で済ませるつもりはない。
資金の制約はあった。
交換したい部品、手を入れたい箇所は他にもあった。
だが現実には、使える金には限りがある。
まだ使えるものは使う。 今でなくてもいいものは先へ回す。
そうやって、やりくりしながら走らせているのだ。
そこに、「まだ大丈夫だろう」という希望的観測が混じる。
正直に言えば、混じっていた。
開幕戦までは持つのではないか。
今回ぐらいは越えてくれるのではないか。
そういう見方が、どこかにあった。
だが、それも含めて自分の責任である。
自分はドライバーである前に、メカニックでもあるのだから。
グリーン上に止めたとき、悔しさはもちろんあった。
だが、それだけではなかった。
「ああ、ここで終わりか」
まず来たのは、そんな感覚だった。
何か大きな不運が突然降ってきた、というより、いくつかの判断の先に、このコース上ストップがあったのだろうと思った。
走っているときのドライバーは、案外忙しい。
ブレーキのことを考え、荷重のことを考え、前後の動きを感じながら、次の操作を決めていく。
自分で動かしている感覚がある。
だが、ひとたび機械が本当に沈黙すると、その感覚はあっけなく剥がれる。
もう出来ることは多くない。
壊し切らないようにすること。
危ないところに止めないこと。
あとは、現実を受け入れることくらいだ。
開幕戦は、やはり特別である。
冬の間に考えてきたことがある。
試したいこともある。
今年はこう入っていきたい、というイメージもある。
そういうものを積んで最初の一戦に来ている。
だから、その最初でマシンを降りることになると、順位以上にこたえる。
速い遅いの話まで行っていない。
まず走り切れていないからだ。
レースは、速さだけの勝負ではない。
最後まで走ること。
壊さないこと。
壊れないこと。
それも含めての勝負である。 そう考えると、今回のはただのトラブルではなかった。
準備のこと、判断のこと、資金のこと、見立ての甘さ。
そういうものが、一度に表へ出た結果なのだと思う。
機械は正直だ。
無理をかけたぶん、いつか返してくる。
こちらが祈っても、気合いを入れても、持ち直してはくれない。
その意味では、生き物よりよほど正直で容赦がない。
だから、こちらも都合のいい希望ではなく、現実を見るしかない。
足りないなら足りないなりに考える。
使うなら、そう判断した責任を引き受ける。
壊れたなら、原因を自分の外へ追いやらない。
結局、次に進むにはそれしかないのだと思う。
鈴鹿のグリーン上で止まっていた時間は、短いのに長かった。
走っているときには見えないものが、止まると急に見えてくる。
自分はどこで現実と折り合いをつけ、どこで希望を混ぜたのか。
何を優先し、何を後回しにしたのか。
走っている時間だけがレースではないのだ。
止まった時間にしか見えないものも、確かにある。
2026年開幕戦、鈴鹿。
私のマシンはグリーン上で止まった。
それは事実として悔しい。
だが同時に、見なければならないものを見せられた時間でもあった。
次へ進むなら、そこから目を逸らしてはいけないのだと思う。
2026/03/03
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