Formula Nippon

FN第5戦オートポリス予選1回目 小暮卓史が暫定ポール!

 全日本フォーミュラニッポン第5戦は5日、大分県のオートポリスで予選1回目を行い、小暮卓史(ARTA)が1'33.424(180.11km/h)でトップタイムを叩き出し、暫定のポールポジションを獲得した。2位に本山哲(Arting IMPUL)、3位にロニー・クインタレッリ(INGING)が入った。

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 いつものフォーミュラ・ニッポンの予選で見られる終了間際のアタック合戦はなかった。序盤の赤旗での予選中断の再開後に本山哲(Arting IMPUL)の出した1'33.887のタイムを、終了10分前に1'33.424であっさりと破り、トップに立った小暮卓史(ARTA)のタイムを上回るマシンは現れず、小暮がこのタイムで逃げ切り1回目の予選を制した。

 14年ぶりにトップフォーミュラのエギゾーストノートがここオートポリスに戻ってきた。オートポリスは、バブル全盛期の1990年にF1開催を目指してオープン。1991年にはフォーミュラ・ニッポンの前身であるF3000が4月に開催されている。初代ウィナ-は中谷明彦。翌1992年7月にも開催され、マルコ・アピチェラが優勝している。しかし、オープン以来経営不安を囁かれてた運営会社がこの年倒産、F1どころかF3000も2年間開催されただけで終わった。

 その後、阿蘇レーシングパークと名称を変更して細々と営業を継続、1996年には当時の上津江村に無償譲渡、名称もオートポリスに戻され村民の熱意で運営されてきた。そして2005年3月には入札で2輪のテストコースとして川崎重工の子会社に買い取られ、サーキット営業も継続し現在に至っている。

 またこの第5戦は、本来先週の7月30日にMINEサーキットで行われるはずだったが、MINEサーキットがマツダに買収されテストコースとしてサーキット営業を終了したためオートポリスへ開催地が変更された経緯がある。4輪メーカーに買収され営業終了したサーキットから2輪メーカーに買収され継続営業されたサーキットに4輪レースであるフォーミュラ・ニッポンの開催地が変更されたのはなんとも皮肉ではある。

 出走台数は前戦第4戦と同じく22台。しかし、今週になって密山祥吾(Direxiv)がエントリーを取り消し、これにかわって平中克幸(EMS)の参戦が発表された。平中は第3戦までDandelionから参戦しており、1戦を休止したのみでフォーミュラ・ニッポン復帰となった。

 オートポリスは早朝からほぼ快晴、標高800メートルに位置するため猛暑の平野部に比べると若干涼しく感じられる。ほぼ無風状態で午前10時、予定通り1回目の予選が始まった。しかし、タイヤ温存のためか10分過ぎまでコースインするマシンは無く、ようやく武藤英紀、ロイック・デュバル(共にPIAA NAKAJIMA)をはじめ数台が走り始めたが、予選開始20分頃、高木虎之介(LeMans)が最終コーナー立ち上がりのコース中央でストップ、このため赤旗が提示された。

 10時25分から予選が再開された。30分過ぎから高木を除く全車がコースイン、1セット目のタイヤでのアタックが始まった。やはり速いのはディフェンディングチャンピオンの本山哲(Arting IMPUL)。ただ1人、1'33.887と33秒台のタイムを叩き出し、タイミングモニターのトップに躍り出た。2位に34.234のロニー・クインタレッリ(INGING)、3位が34.459の土屋武士(LeMans)。

 しかし、予選終了10分余り前、練習走行から好調の小暮卓史(ARTA)がいきなり33.424を叩き出しトップにつける。これをきっかけに各車タイムアタックをかけると思われたが、終了直前になっても誰もこのタイムを上回るドライバーは現れず、小暮の1回目での暫定ポールが確定した。2位は中断後早々のタイムで本山哲、3位にはロニー・クインタレッリが入った。復帰の平中克幸(EMS)は17位、F1帰りの井出有治(Dandelion)は20位と低調だった。

 路面温度が高いためタイヤ温存なのか、ほとんどのドライバーは午後の予選2回目にかけると思われる。2回目の予選は午後2時より45分間にわたって争われる。

Text: Yoshinori OHNISHI / Photo: FMOTOR



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