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ハンマー伊澤のフロム・ザ・コックピットLAP5「「遠い昔に聞いた、スピードの声」」

LAP5 「遠い昔に聞いた、スピードの声」

ハンマー伊澤

今でも覚えている。

35年ほど前だっただろうか、筑波サーキットで行われていたプロダクションカーの耐久レース。そのデモランで走ったF3000マシンが、目の前をものすごいスピードと音で駆け抜けていった。
ドライブしていたのは、確かロス・チーバーだったと記憶している。

ただ速かった、というだけではない。 あれは、何か別のものだった。
姿も、音も、空気の震え方も、全部ひっくるめて一気に来た。

目の前を通り過ぎた、その瞬間である。 なぜか涙が出た。
自分でも、何に打たれたのか、うまく説明できない。
感動という言葉でも少し違う気がする。
もっと剥き出しで、もっと直に来るものだった。
あのとき確かに、ただの「車」ではない何かが、目の前を通り過ぎていったのである。

最近のモータースポーツの流れを見ていると、思うことがある。
環境問題。 カーボンニュートラル。 エコ。
時代は確かに、そちらへ向かっている。 それは否定できない。
モータースポーツも、その流れの外にはいない。
そこに背を向けて済む話ではないし、環境への配慮を笑うつもりもない。
現代を生きている以上、その課題とは向き合うしかない。

だが、それでも思うのである。
耳を劈くようなエンジン&エキゾーストサウンドは、決して懐古主義ではない。
昔は良かった、というだけの話ではない。
ただ騒がしいものをありがたがっているのでもない。
そこを雑に片づけられると、違うだろう、と言いたくなる。

速さと音がひとつになったとき、人は理屈を越えた何かを感じる。
スピードと音の組み合わせに、魂が騒ぐ。

それは、気分の問題だけではない。
機械が限界へ向かっていること。
回転が上がっていくこと。
いまこの瞬間にエネルギーが解き放たれていること。
そういうものを、人は音で受け取っている。
目だけでは足りない。 耳で浴びて、身体で受けて、はじめて速さが実体を持つ。
私はそう思っている。

2014年、F1が自然吸気V8からV6ターボハイブリッドに変わったとき、セバスチャン・ベッテルは「パドックが社交ダンスの場になってしまった」と嘆いた。
あの言葉は、今も印象に残っている。
単に音量の話ではなかったのだと思う。
現場から、大事なものが抜け落ちた。
そういう感覚だったのではないか。

マシンが全身で吠えている感じ。
サーキット全体が緊張を帯びる感じ。
音が空気を支配していた、あの時代。
あれは数字の説明だけでは埋まらない種類のものだったはずである。

モータースポーツにおける音は、単なる付随物ではない。
それは速度の気配であり、回転の昂ぶりであり、人&マシンが限界へ向かっていることを耳で知るための現実でもある。
視覚だけでは足りない。 あの音があるからこそ、人は速さを身体で理解できる。
音は演出ではないく、速さの一部なのである。

私は、静かであることが、正義だとは思わない。
もちろん、環境への配慮は必要である。
そこから目を背けるつもりはない。
だが一方で、人の感性を震わせるものまで、あっさり切り捨ててよいとは、まったくもって思わない。

モータースポーツは、単に速さを競うだけの装置ではない。 人&マシンの限界と、人の感情の震えとを、同時に見つめる文化でもある。
その中で音が果たしてきた役割は、小さいどころか、かなり大きいはずだ。
音には、数字では置き換えられない説得力がある。

ストレートを通過するマシンを目で追っている時の、音圧レベルの変化。
コーナー進入時のダウンシフトの弾けるような音。
立ち上がりでまた重厚な音に変化していく時の、張り詰めるようなあの変化。
ただ聞いているだけなのに、こちらの内臓までつかまれるような感じになることがある。
観客席にいても、ピットにいても、音は身体に直接届く。

だから音が薄くなるというのは、ただ静かになるというだけではない。
モータースポーツが持っていた生々しさが、少し薄くなるということでもあるのだと思う。

疾風改に積んでいる2ZZエンジンは、排気量こそライバルより小さいが、高回転型のエンジンである。
このエンジンの価値は、数字だけでは語り切れない。
上まで回したときに現れる、あの抜けのいい音。
あれは、ただ回っているというだけではない。
マシンが自らの資質を露わにしていく瞬間の声のようなものである。

回転上昇とともに音が変わり、鋭さを増し、機械の内側にある性格そのものが剥き出しになっていく。
高回転型のエンジンには、高回転型のエンジンにしかない鳴き方がある。
その魅力は、排気量の数字だけでは決まらない。

だから、ただ走ればいいとは思っていない。
速ければそれでいい、という話でもない。
エキゾーストも工夫し、観る者の感性を刺激するようなサウンドに仕上げたいと思う。

1800ccの4気筒エンジンでは、たかが知れていると思われるかもしれない。
それはそうかもしれない。
昔の大排気量多気筒エンジンの、シンフォニーのような重厚な音は望めない。
だが、無いなら無いなりにに、出せる世界がある。

切れ味のある音。
上で抜けるような甲高い音。
ただ耳に届くだけではなく、胸に刺さる音。
そういうものは、まだ作れると思っている。

こういった部分にも創意工夫ができるのが、フォーミュラビートの美点の一つだ。

見た者、聞いた者の心に、何かを残すマシンにしたい。
ただ速かった、で終わるのではなく、 「あの音は忘れられない」 そう思ってもらえるようにしたい。

速さだけでなく、音でもまた、人の心を震わせるマシンでありたいのである。
あの日、筑波でF3000を見て、なぜ涙が出たのか。
いま振り返れば、それはスピードそのものに打たれたのではない。
速さと音がひとつになって、感性に触れ、魂に訴えかけてきたからだと思う。
目の前を通り過ぎたのはF3000マシンだったが、自分の中に残ったのは、それ以上の何かだった。

速さへの憧れ。
フォーミュラカーへの畏れ。
人の感情を揺さぶるものとしてのモータースポーツの力。
そういうものを、一度に浴びたのだと思う。

だからこそ、音は懐古ではない。
ただ昔を恋しがるための記憶ではない。

今なおモータースポーツが人の魂を揺さぶりうる、その理由のひとつなのである。

2026/05/23

HAMMER RACING HP:https://www.hammer-izawa.com/

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