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2021年10月

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B-MAXストーリー(10)目指すチーム像と目標

B-MAXストーリー

目指すチームはトムス

短期間でトップカテゴリーにまで辿り着いたB-MAXレーシングだが、チームづくりはまだ道半ばだ。

二人三脚でチーム運営をする組田と宮田は、口を揃えて「目指すのはトムス」と言う。トムスは別格だと。だから、チームをスタートさせたときから、トムスに追いつけ追い越せを目標にやってきたという。

組田と宮田のタッグは、本田宗一郎と藤澤武夫に似ているかもしれない

組田と宮田のタッグは、本田宗一郎と藤澤武夫に似ているかもしれない

組田は、かつてトムスの強さはどこにあるのかをレース関係者に聞いて回ったことがある。そこで見い出した強さの秘訣は、チームスタッフの定着率が高いこと、同じメンバーでやり続けることだった。

そこで、長期間一緒に働ける環境づくりを目指し、ある時からチーム運営のコアな部分は社員で行う路線に切り替え、社員を一人ずつ増やしていった。

チーム発足から11年で確実に目指す形には近づいている。あとは結果だ。

まずは1勝が目標

チームの目標を尋ねると、組田はこう答えた。

「目標は、スーパーフォーミュラでチャンピオンを取り、名実ともに日本一になることです。F3までは達成してきましたので、スーパーフォーミュラでチャンピオンを取るまでは続けたいと思っています」

「ただ、1勝もしていないのにチャンピオンなんて口にするのはおこがましい。まずは1勝です。今シーズンの残り2戦で何とか達成したいと思います」

B-MAXレーシングがまた一歩階段を上がることができるのか、10月17日の第6戦(もてぎ)、10月31日の最終戦(鈴鹿)に注目だ。

情熱を注ぐドライバー育成

B-MAXレーシングは、これまで全日本F3、SFライツで何人ものドライバーをサポートしてきた。

今シーズンSFライツで走る名取鉄平もその一人だ。名取は昨シーズンでホンダの育成枠を外れることになった。ただ、組田は育て方次第で伸びると見て声をかけた。組田は「彼がチャンピオンを獲って、どこかのメーカーに声をかけられたら僕の目標は達成です」と言う。

現在チャンピオン最右翼の名取鉄平(Byoubugaura B-MAX Racing 320)

現在チャンピオン最右翼の名取鉄平(Byoubugaura B-MAX Racing 320)

この組田の取り組みを、何のためにやっているのかと訝しがる関係者もいる。しかし、組田は意に介す様子はまったくない。「これは僕のパッション(情熱)です。それに尽きます」と言い切る。そして、可能であれば、自動車メーカーの育成プログラムにも関わりたいという。

組田のドライバー育成に対する拘りは、自らが若くして経営者になったとき、周りの人たちの助けで成長できた実体験が影響しているように思える。若者の可能性を信じ、手を差し伸べることが、相手と自分の人生において、また社会にとって財産になることを信じている。そして、組田にとってはそれが至上の喜びであり、情熱を注ぐに値することなのだ。

B-MAXへの期待

初回に、B-MAXレーシングは「特異な存在」と書いた。

そう感じるのは、メーカー色の薄いチームであること、外国人ドライバーを積極的に起用すること、海外のチームとジョイントすること、多くのカテゴリーに参戦していることなど、外から見えることだけではない。

それは、オーナーである組田のキャラクターによるところが大きいが、閉鎖的になりがちなレース界にあって、オープンな空気を醸し出しているところからくるものだと思う。これはB-MAXレーシングの大きな魅力である。

ぜひ、新しい風として、レース界、特にスーパーフォーミュラに刺激を与え、たとえ小さくてもファンのために変革を起こしてくれることを期待したい。

最後に、今回ファクトリーにお邪魔をし、組田、宮田両氏には貴重な時間を割いて話を聞かせていただいた。また丁寧な応対をいただいたことに深く感謝を申し上げたい。

(了)

Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Katsuhiko KOBAYASHI
Shigeru KITAMICHI

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B-MAXストーリー(9)トップフォーミュラへの想い

B-MAXストーリー

望むはプロスポーツ化

フォーミュラカーの面白さに魅了され、スーパーFJからSFライツまで数多くのレースに参戦してきた組田のフォーミュラに対する想いは熱い。

スーパーフォーミュラで争うドライバーの凄さを十分に知るからこそ、国内最高峰のフォーミュラカーレースは、純粋にドライバーの戦いであってほしい、プロスポーツであってほしいと強く願っている。

松下信治はエンジンサプライヤー(ホンダ)の意向によって第2戦からの参戦を余儀なくされた

松下信治はエンジンサプライヤー(ホンダ)の意向によって第2戦からの参戦を余儀なくされた

「他のプロスポーツでは、アスリートはスポンサーと対等であるのに比べ、スーパーフォーミュラではドライバーは自動車メーカーのサラリーマンのようになってしまっている」

「このため移籍も限定的で、これはプロスポーツとしての面白さをスポイルしている。トップフォーミュラに乗る選ばれたドライバーは、育成してくれたメーカーに縛られることなく自由に移籍ができるようになってほしい。そう思います」

B-MAXレーシングのファクトリー内には本格的なドライビング・シミュレーターが備えられている

B-MAXレーシングのファクトリー内には本格的なドライビング・シミュレーターが備えられている

「自動車メーカー、チーム、ドライバー、そしてメディアも、プロスポーツとしてスーパーフォーミュラをどう盛り上げていくのかを、真剣に考え、取り組んでほしい」

「ドライバーの争いだけではなく、技術競争の側面もあって、素晴らしいことをやっているのに、それが一般の人たちに伝わらないのが何とも歯痒いんです」

矢継ぎ早に溢れ出てくるトップフォーミュラへの想い。

この想いが形になるには時間がかかるだろうが「少しずつでも変えていきたい」と組田は言う。そのためには、まずは結果を出し、チームが力をつけることが必要だ。

スーパーフォーミュラは最高の勝負

組田はスーパーフォーミュラとスーパーGTの違いをこう表現する。

「スーパーGTは最高峰の“レース”、スーパーフォーミュラは最高の“勝負”」

勝負師の組田らしい表現だが、言い得て妙である。そして、こう付け加える。

勝負の拠点、ファクトリー内の作業スペースは非常にゆったりとしている

勝負の拠点、ファクトリー内の作業スペースは非常にゆったりとしている

「スーパーGTは、ハンデキャップ制であえて勝ち続けることができないルールになっています。魅せるレースとして大成功だと思います。重くなったり(燃料の流量を)絞られたり、そういう中で速く走らせる技術というのは本当に凄い。ただ、フォーカスされるのはドライバーよりもクルマです」

「一方、スーパーフォーミュラはドライバーの勝負です。今年でいえば野尻選手はずば抜けて速い。あの速さは手が付けられない。野尻は速い。もうそれに尽きます。クルマが速いとは誰も言いません」

(10)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Katsuhiko KOBAYASHI
Shigeru KITAMICHI

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B-MAXストーリー(8)念願のトップフォーミュラ参戦へ

B-MAXストーリー

スーパーフォーミュラへの参戦

B-MAXレーシングとして参戦するようになった2014年からの3年間は、全日本F3では名門トムスを脅かす存在になり、スーパーGT(GT300クラス)でもコンスタントにシリーズ上位に名を連ねるようになった。

組田自身も“DRAGON”として全日本F3(Nクラス)にステップアップを果たし、毎年順調に戦績を積み重ねていた。

しかし、チームの戦績や経営が安定し始めると、組田のなかでトップフォーミュラへの想いが募っていく。その想いは日に日に膨らんでいき、ついに2017年から念願のスーパーフォーミュラへ打って出ることを決断する。

参戦初年度は小暮卓史を起用して戦ったが最高位は12位、ノーポイントに終わった

参戦初年度は小暮卓史を起用して戦ったが最高位は12位、ノーポイントに終わった

組田は自分の性格を「慎重な部分と無謀な部分が同居している」と分析する。そして、「レースに関しては無謀な部分が出る」とも。

これまでも「結果は後で考えよう、とりあえずやってしまえという感じでした」。その典型がスーパーフォーミュラへのチャレンジだった。

この参戦をきっかけに、組田はB-MAXレーシングを会社組織として独立させるが、その社長に就くことになった宮田は当時のことをこう振り返る。

「組田さんから何の相談もなく(スーパーフォーミュラを)やるから、と言われました(笑)。僕はお金がとんでもなくかかりますからやめた方がいい。F3とは桁が違いますよと言いました」

これまで何かにつけて宮田に相談をしてきた組田だったが、トップフォーミュラへの想いは強く、その決断が揺らぐことはなかった。ここからのチームの苦労は想像に難くない。

新興チームの苦悩

他チームには、監督にタレント性、スター性があり、スポンサーを比較的集めやすいチームもある。しかし、B-MAXレーシングにはスター監督もいなければ、ネームバリューもない。このため、チーム運営はミドルフォーミュラに参戦するジェントルマンドライバーからの運営受託、屏風浦工業からのスポンサード、ドライバーの持ち込みスポンサーフィーなどが活動資金の中心になる。

ドライバーの選定にあたっても、いわゆるメーカー系チームではないB-MAXレーシングは、トヨタ、ホンダ系の有力若手ドライバーを乗せることは叶わない。必然的にその選択肢は限られ、勝てる可能性のある外国人ドライバーを乗せることになる。

2019年は海外チーム、motoparkとのジョイントでルーカス・アウアー(Red Bull SF19)を走らせ第3戦で初表彰台

2019年は海外チーム、motoparkとのジョイントでルーカス・アウアー(Red Bull SF19)を走らせ第3戦で初表彰台

しかし、コロナ禍の2020年は外国人ドライバーの来日がままならず、苦しいシーズンを過ごすことになった。

満を持して、昨年終盤好走を見せた松下信治を起用してフル参戦しようとした今シーズンも、スーパーGTで日産車に乗る松下がドライブすることに、エンジンサプライヤーのホンダが難色を示し、出鼻をくじかれてしまった。メーカーの支援を受けないチームの苦労は絶えない。

本山監督の起用

それでも、組田は勝つためにあらゆる手を尽くす。1998年、2001年、2003年、2005年とトップフォーミュラで4度のチャンピオンを獲得し、勝ち方を知る本山哲を監督に招聘したのもそのひとつだ。

「本山さんのレースに対する熱量は凄くて、勝つための厳しさも持っています。チームは厳しさのなかでしか急成長できないと思っています。だから、弱小チームですが来てくれませんかとお願いしたんです」と組田。

現役時代はずば抜けた強さを誇った本山哲を監督に迎えたことも結果に結びついている

現役時代はずば抜けた強さを誇った本山哲を監督に迎えたことも結果に結びついている

ここまで読んだ方にはお分かりだろうが、組田が見込んで起用した人材は必ずチームに貢献し、結果をもたらす。

2019年ルーカス・アウアーとハリソン・ニューウェイが表彰台を獲得し、2020年はシリーズ終盤からドライブした松下が最終戦で表彰台に登った。今シーズンも出遅れは響いたが、第3戦オートポリスで3位、第4戦SUGOで4位、第5戦もてぎで3位と、安定したリザルトを残し、チームは確実に力をつけてきている。

もちろん、監督だけの力ではないが、チームをまとめ上げ、結果に繋げるうえで監督の果たす役割は大きい。

松下というポテンシャルの高いドライバーを得たことで、チームが目指す「まずは1勝」もそう遠くないところまできている。

(9)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Katsuhiko KOBAYASHI
Motorsports Forum

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B-MAXストーリー(7)開けたトップチームへの道

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初年度でF3チャンピオンを獲得

2011年、関口を擁して臨んだ全日本F3選手権で、第3戦からの参戦にもかかわらず、関口は6勝を上げいきなりチャンピオンに輝く。関口のドライバーとしての才能が花開くとともに、宮田のエンジニアとしての能力が参戦初年度にして実証されたのである。

2011年9月、関口雄飛(B-MAX F308)がチャンピオンを決めたレースのスタートシーン

2011年9月、関口雄飛(B-MAX F308)がチャンピオンを決めたレースのスタートシーン

翌2012年は山内英輝、2013年は千代勝正を起用し、シリーズ3位を獲得したB-MAXエンジニアリングは、その実績をもって、ニスモに全日本F3におけるNDDP(ニッサン・ドライバー・デベロップメント・プログラム)を任せてほしいと申し出る。

当時、トヨタやホンダのように独自のドライバー育成システムを持たなかった日産は、全日本F3(Nクラス)とスーパーGT(GT300クラス)で、NDDPとして育成プログラムを展開していた。

その交渉が進むなかで、ニスモ側から思わぬ提案がなされた。全日本F3のNDDPを任せるので、セットでスーパーGTもやらないかというものだった。

スーパーGTへの参戦

フォーミュラに傾倒していた組田は、スーパーGTにはあまり興味がなかった。しかし、全幅の信頼を置いていた宮田が「日本でレースをやる以上、スーパーGTは絶対やるべきだ。チャンスがあるならやった方がいい」と助言し、スーパーGTにおいてもNDDPとのジョイントが決まった。

B-MAXレーシングが最初に手掛けたスーパーGTマシン B-MAX NDDP GT-R(星野一樹/ルーカス・オルドネス)

B-MAXレーシングが最初に手掛けたスーパーGTマシン B-MAX NDDP GT-R(星野一樹/ルーカス・オルドネス)

これを機に、B-MAXレーシングチームに改称し、2014年から全日本F3では「B-MAX Racing Team with NDDP」として、スーパーGTではエンラント名こそ「NDDP RACING」のままであったが、3号車のメンテナンスと開発を請け負うことになったのである。

こうして、また一歩階段を登ることになったB-MAXレーシングは、2017年から自チームでスーパーフォーミュラへの参戦を開始し、2018年からはスーパーGTでGT500クラスのGT-Rを任されることになる。

工場の片隅でスーパFJ2台から始まった弱小チームは、僅か8年という短期間で国内トップチームの仲間入りを果たすことになるのである。

(8)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Katsuhiko KOBAYASHI
Motorsports Forum

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B-MAXストーリー(6)宮田エンジニアとの出会い

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急きょ決まったF3参戦

関口のF4での雨中の激走を見ていた人がいた。名門チーム、トムスの監督、関谷正徳である。関谷は関口の走りに光るものを感じ、B-MAXエンジニアリングで全日本F3選手権に参戦することを提案する。提案にはトムスで空いているマシンをレンタルすることも付け加えられた。

2011年全日本F3第3戦、関口雄飛(B-MAX ENGINEERING)は復帰レースで初優勝を飾る

2011年全日本F3第3戦、関口雄飛(B-MAX ENGINEERING)は復帰レースで初優勝を飾る

これはF3に戻りたかった関口にとっては願ってもない提案だったが、B-MAXエンジニアリングにとっては戸惑いもあった。従業員が2人しかいないのにF3なんてできるのだろうか。不安になった組田はメカニックに尋ねた。するとメカニックは「F3をやるのが夢だった。せひやりたい」と言った。

B-MAXエンジニアリングにとって大きな賭けとなる挑戦が決まった瞬間だった。

宮田雅史エンジニアとの出会い

F3参戦は決めたものの、やはり経験のあるエンジニアがいないと話にならない。そこで、白羽の矢を立てたのが、現在B-MAXレーシングの社長を務める宮田雅史である。

宮田を組田に紹介したのは関口であるが、この必要なタイミングで最良の人物と巡り逢う強運は、組田が生来持ち合わせているものかもしれない。

組田の右腕としてB-MAXレーシングを取り仕切る宮田

組田の右腕としてB-MAXレーシングを取り仕切る宮田

当時、宮田はスーパーGTにランボルギーニで参戦していたJLOCチームのエンジニアを務めていた。国内ではあまり知られた存在ではなかったが、ルマン商会(現在のチームルマン)を経て、単身ヨーロッパに渡り、ルマン24時間レースに参戦したチーム郷、マクラーレン、アウディスポーツなどを渡り歩いた経歴を持つ隠れた逸材だったのだ。

「宮田との出会いは僕にとって非常に大きかった。彼の優秀さはすぐに分かりました。B-MAXをレーシングチームとして発展させるには手放してはいけない人材だと思いました」と組田の評価は高く、その後6年間、宮田はB-MAXエンジニアリングの専属エンジニアを務めることになる。

6年後の2017年、組田はB-MAXレーシングを別会社として立ち上げることになるが、その社長に宮田を就任させ、そこから本格的に、組田と宮田による二人三脚のチーム運営が始まるのである。

(7)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Motorsports Forum
Shigeru KITAMICHI

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B-MAXストーリー(5)関口雄飛との出会い

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オリジナルF4マシンの開発

2010年からF4にも進出したB-MAXエンジニアリングは、すでに入門用フォーミュラマシンのノウハウも蓄積していたため、コンストラクターとしても名乗りを上げることになる。

当時のF4は、日本自動車工業会(JMIA)が開発した共通のカーボンモノコックを使っており、いくつかのコンストラクターがマシン製作を行っていた。

RK-01は現在もJAF-F4において活躍中だ。画像は2016年西日本シリーズの澤田真治(B-MAX・RK01・TODA)

RK-01は現在もJAF-F4において活躍中だ。画像は2016年西日本シリーズの澤田真治(B-MAX・RK01・TODA)

B-MAXエンジニアリングも、屏風浦工業と取引きのあった東京R&DのF4マシンをベースに、オリジナルF4マシン「B-MAX RK-01」を造り上げた。RKは組田龍司のイニシャルである。

そして、このマシンのデビューを演出したのが、今や押しも押されぬトップドライバーの関口雄飛である。

鮮烈のデビューウィン

2011年4月、東日本大震災の影響で開幕戦がキャンセルになったF4東日本シリーズの実質の開幕戦、第2戦が富士スピードウェイで開催された。ここにシェイクダウン間もないRK-01が登場し、関口雄飛のドライブにより雨の予選、ドライの決勝ともに圧倒的な速さを見せデビューウィンを飾ったのだ。

この勝利はマシン性能もさることながら、関口の力によるところが大きかったのは言うまでもない。

2011年若き日の関口雄飛(23歳)

2011年若き日の関口雄飛(23歳)

関口はこの頃、2008年の海外挑戦を資金的な都合で断念し、帰国後参戦した全日本F3でもシートを失っていた。そこでスーパーFJでコーチを務めていた繋がりで、自らRK-01の開発ドライバーを志願しての参戦だった。

実は、関口を組田に引き合わせたのは、B-MAXエンジニアリングでスーパーFJに乗り、レーシングカート時代から関口を良く知るジェントルマンドライバー吉田基良だった。この縁がなければ、今のトップカテゴリーに参戦するB-MAXレーシングはなかったはずである。

「関口はその頃からちょっとアウトローな感じでした。僕はそういう選手が好きなんです。ちょっと跳ねっ返りぐらいの方が面白いじゃないですか」と組田は当時を思い出しながら目を細める。自身もそうだったから惹かれるのかもしれない。

このF4での勝利が、B-MAXエンジニアリングと関口にとって思いがけない飛躍をもたらすことになるのである。

(6)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Motorsports Forum
Yoshinori OHNISHI

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B-MAXストーリー(4)B-MAXエンジニアリング誕生へ

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勝負師・組田の決断

話は遡るが、2006年からポルシェカレラカップに出場した組田は、3年間の参戦のなかで釈然としない思いを抱いていた。

それは、組田の勝負師たる性格、実業家としての経験に大いに起因するのだが、一つは、イコールコンディションと言われるレースでもマシンの差が大きく、速いチームで走らないと結果はついてこないということ、もう一つは、コスト面が明朗会計ではなく、投資額が速さに繋がっているのか曖昧であることだった。これにはどうしても納得できなかった。

B-MAXエンジニアリングのファクトリーにて

B-MAXエンジニアリングのファクトリーにて

「勝負師」と書いたが、組田は勝負事は好きだがギャンブルは一切やらない。生きた金の使い方をすることに拘るのである。

「これは自分で納得できるよう、自らやる方がいい」。そう思った組田は、早速行動を起こす。本業がリーマンショックでダメージを受ける最中ではあったが、知り合いのメカニックを誘って、2010年にB-MAXエンジニアリングを立ち上げる。

工場の片隅からのスタート

ネーミングの由来は、屏風浦の「B」、一番になりたいという思い、常に全開という意味の「MAX」を組み合わせたものだ。

メンテナンスするのは、組田と、知り合いのスーパーFJが2台、従業員は1人という小さな所帯だったが、クルマをいかに速く走らせるかは本業にも役立つと考え、屏風浦工業のレース事業部としてスタートさせた。

現在、B-MAXエンジニアリングでは、SFライツ5台、FRJ4台、FIA-F4,3台ものフォーミュラを整備している

現在、B-MAXエンジニアリングでは、SFライツ5台、FRJ4台、FIA-F4,3台ものフォーミュラを整備している

現在は、トップカテゴリーに参戦するB-MAXレーシングと、ミドルフォーミュラを中心にメンテナンスをするB-MAXエンジニアリングに分かれており、規模も比較にならないほど拡大しているが、チームは11年前に工場の片隅から始まったのである。

(5)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Shigeru KITAMICHI

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B-MAXストーリー(3)組田龍司は何者なのか② 募るフォーミュラ愛

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念願のレース出場へ

社業で忙殺される毎日だったが、組田の唯一の趣味であるクルマやレースを忘れることはなかった。この間もサーキット走行会やレース観戦に出かけていた。

そして、会社を軌道に乗せた組田が37歳になった頃、親しくしていた、レースやチューニングカーの世界では知らぬ者はいないRE雨宮の社長から「レースをやりたいなら無理してでもやりなよ、やらないと後悔するよ」という一言をかけられる。この言葉が眠っていたレース参戦への想いを呼び覚ますことになる。

2004年ポッカ1000km PROMODET JUジャナイトポルシェ993(組田龍司/清水隆広/吉田泉)

2004年ポッカ1000km PROMODET JUジャナイトポルシェ993(組田龍司/清水隆広/吉田泉)

2004年、知り合いのチューニングショップのポルシェ993で、まだスーパーGT選手権に組み込まれる前の「インターナショナル・ポッカ1000kmレース」に参戦。念願のレースデビューを果たすことになる。組田がレース参戦を志してから実に15年の時が流れていた。

翌2005年も同レースにRX-7で参戦する。この年、組田は現在使用するドライバーネーム“DRAGON”に通じる“ドラゴン・クミタ”の名前で出場している。

その後、2006年から3年間、ポルシェカップに出場する。ただ、あくまでも自分の手の届く範囲での参戦で、リセールバリューのあるポルシェなら、一番お金がかからないと判断してのことだった。

フォーミュラに魅了される

念願のレース参戦を果たし公私ともに充実した日々を送っていた組田だったが、順調だった会社経営にピンチが訪れる。2008年の終わりに世界を揺るがしたリーマンショックである。組田も会社のことを考え、一旦はレースの継続を断念しようと考えた。

しかし、長年の夢であったレースをどうしても諦めることができず、一番お金のかからないカテゴリーを探すなかでスーパーFJと出会う。後に組田がのめり込むフォーミュラカーの扉を開けた瞬間だった。

ここからの組田は、フォーミュラの魅力にハマっていく。

組田はフォーミュラカーを操るためにトレーニングを欠かさない

組田はフォーミュラカーを操るためにトレーニングを欠かさない

2009年から4年間は、全国で行われていたスーパーFJの地方シリーズに挑戦し、JAF-F4にもスポット参戦をする。ここでフォーミュラカードライビングの基礎を学んだ組田は、2013年、全日本F3選手権(Nクラス)にステップアップ。5年目には念願のNクラスチャンピオンを獲得する。

目標だったマカオGPに参戦

このチャンピオン獲得により実現したのが、当時組田が目標としていたマカオGP参戦だ。2017年の参加ドライバー中最高齢の49歳ではあったが、組田は年齢を感じさせない果敢な走りを見せた。しかし、世界屈指の難コースはそう簡単に攻略できるはずもなく、予選でクラッシュを演じるという洗礼を受けた。

翌年もマカオGPに参加が許された組田は、手堅く完走狙いに切り替え、見事18位というリザルトを残した。「人生で最も記憶に残る出来事。できることならもう一度チャレンジしたい」と、組田のマカオGPに対する想いは強い。

原動力はフォーミュラ愛

組田は、2018年からは全日本F3選手権のオーバーオールクラス、2020年からは新設されたSFライツとFRJに参戦し、マスタークラスのトップコンテンダーとしての地位を確実なものにしてきた。それは54歳の今も現在進行形である。

「フォーミュラに乗り始めたらもうハコ(ツーリングカー)には興味がなくなり、とにかくフォーミュラに乗りたくて、アマチュアが乗れる一番上のF3までまで行ったという感じです」と笑う組田だが、参戦を継続するための努力も怠らない。

多忙ななかにあっても、週5日、毎日2時間のトレーニングは欠かさないという。54歳にして体脂肪率は驚異の1桁である。

もし、サーキットで組田を見かけたら、こっそり観察してみることをお勧めする。その体躯はとても50代のものとは思えないほどである。

とにかく、この組田のフォーミュラ愛こそが、B-MAXレーシングの大きな原動力であることは間違いない。

さて、オーナー組田の考え方などはこの後も度々登場するが、組田が何者かはここで一区切りにして、いよいよ次回はB-MAXレーシングの誕生に迫っていこう。

(4)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Katsuhiko KOBAYASHI
Motorsports Forum

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B-MAXストーリー(2)組田龍司は何者なのか① 抱き続けたレースへの想い

B-MAXストーリー

クルマとバイクに明け暮れた青春時代

組田龍司(以下、組田)は1967年、神奈川県横浜市で生まれた。育ちも横浜の生粋の浜っ子である。

この時代の若者には珍しくはないが、クルマとバイクをこよなく愛し、愛車を改造しては峠を走り、それを生き甲斐として日々暮らしていた。

走り屋なら誰もが抱くレースへの憧れも持ち続けてはいたものの、具体的な行動を起こしたのは、自動車メーカーに勤める社会人として、それなりの収入を得られるようになった22歳の頃。意外に遅かった。

昔の思い出を語るB-MAXレーシング/エンジニアリングの組田龍司代表

昔の思い出を語るB-MAXレーシング/エンジニアリングの組田龍司代表

地元横浜でレースに参戦しているショップへ行き、レースに出るにはどのくらいの費用が必要なのかと尋ねた。当時、富士フレッシュマンレースにS13型のシルビアクラスが新設され、それに出場することを考えていた。

ところが、ショップから提示された額は「当時の給料では到底支払えるものではなかった」と、ここで膨らんでいたレース参戦の夢はあえなく萎んでしまう。借金をしてまでやることは考えず、俺には無理だとあっさり諦めてしまった。今ならレーシングカートから始めるのかもしれないが、当時の組田はその存在すら知らなかった。

遅咲きの組田は今や日本のジェントルマンドライバーの代表格だ

遅咲きの組田は今や日本のジェントルドライバーの代表格だ

屏風浦工業の若き社長へ

時をほぼ同じくして、組田の父が創業した屏風浦(びょうぶがうら)工業にピンチが訪れる。父が癌を患い余命宣告されてしまったのだ。会社の経営に携わっていた父のブレーンからは後を継いでほしいと懇願され、組田は弱冠22歳にして経営のトップに就くことになる。

ちなみに屏風浦工業というやや古風に思える社名は、創業の地、横浜市磯子区の地名である。主な業務は、自動車メーカーが開発する新型車両(試作車)の部品製造である。

【屏風浦工業ホームページ】(リンク)

B-MAXレーシングのトランスポーターにも屏風浦工業のロゴが入っている

B-MAXレーシングのトランスポーターにも屏風浦工業のロゴが入っている

そこからの苦労は筆舌に尽くしがたいものだったようだ。中小企業は社長個人の信用、人脈で成り立っているものだということを思い知らされたという。もちろんレースに費やす時間はなく、社業に専念することになる。

「20代前半から30代半ばまでの経験は、ものすごく辛かったですが良い経験でした」と組田が語るように、そこで培われた反骨心とビジネスセンスは現在のレーシングチーム運営でも大いに発揮されている。

社長就任当時から組田にはぶれない思いがある。それは会社に世襲制は持ち込まないということだ。当時、自身が何の苦労もせずに会社を継いだことに後ろめたさがあったという。「一生懸命やっても上に上がれないのではやる気を失う。誰にもチャンスはあるようにしたい」と、今は日々社員を鼓舞し、その中から優秀な人が出ることを願っている。

この誰にもチャンスを与え、育てるという考え方も、レーシングチームの運営に生きている。

(3)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Motorsports Forum
Shigeru KITAMICHI

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B-MAXストーリー(1)いま気になるチーム、B-MAXレーシング

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いま、国内レースで気になるチームはどこかと尋ねたら、B-MAXレーシングチーム(以下、B-MAXレーシング)と答えるレースファンは多いのではないだろうか。

スーパーフォーミュラ、スーパーGT(GT500クラス)の2大トップカテゴリーに、ここ4、5年の間に相次いで参戦を開始しただけでなく、参戦を継続しているスーパーフォーミュラ・ライツ(SFライツ)、昨年からスタートしたフォーミュラ・リージョナル・ジャパニーズ(FRJ)など、実に多くのカテゴリーでB-MAXのロゴを目にするようになってきた。

2021年のスーパーフォーミュラを戦う松下信治(BYOUBUGAURA B-MAX SF19)

2021年のスーパーフォーミュラを戦う松下信治(BYOUBUGAURA B-MAX SF19)

スーパーフォーミュラでは、トヨタ、ホンダ系と言われるチームの多いなか、メーカー色の薄いチームとして活動し、外国人ドライバーを積極的に起用したり、海外のチームとジョイントしたりするなど、やや特異な存在としてシリーズに刺激を与えている。

今シーズン、スーパーGTにおいてGT-Rに乗る松下信治選手のスーパーフォーミュラへの起用を巡って、紆余曲折の末に第2戦から参戦にこぎ着けたことは記憶に新しい。

2021年のスーパーGTを戦うCRAFTSPORTS MOTUL GT-R(平手晃平/千代勝正)

2021年のスーパーGTを戦うCRAFTSPORTS MOTUL GT-R(平手晃平/千代勝正)

また、チーム代表の組田龍司氏が現役のレーシングドライバーとして、SFライツ、FRJ、FIA-F4などに積極的に参戦していることも、他のチームには見られないユニークな点だ。

B-MAXレーシングはどのように生まれ、発展してきたのか、オーナーの組田龍司氏とは何者なのか、多くのレースファンが抱いている疑問を解くために、B-MAXのファクトリーに突撃取材を試みた。

まずはB-MAXレーシングのオーナー組田龍司氏とは何者なのかから紐解いていこう。

(文中敬称は略させていただきます)

(2)に続く
Text: Shigeru KITAMICHI
Photo: Katsuhiko KOBAYASHI

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