その他

Event:HondaのF1第2期黄金時代を支え、日本中を巻き込んだF1ブームを演出した歴代のマシンがその姿を再びファンの前に!! (モビィリティランド)

1964年から68年までの第1期F1参戦で2度の優勝を記録したHondaは、チームにエンジンを供給する形で1983年にF1復帰。86年ウィリアムズが見事にコンストラクターズチャンピオンを獲得し、この年からHondaエンジン搭載車が6年連続でコンストラクターズチャンピオンを獲得。ドライバーズチャンピオンも翌1987年から5年連続で獲得するなどHonda第2期黄金時代の幕が開いた。1987年には初めて鈴鹿サーキットでF1日本グランプリが開催され、中嶋悟がロータスで日本人初のフル参戦を果たすなど一気にF1ブームが巻き起こり、日本グランプリには多くのファンが訪れた。

88年、Hondaは新たにマクラーレンにエンジンを供給。A・セナ、A・プロストの2人で全16戦中15勝を記録する圧倒的な強さでコンストラクターズ、ドライバー(セナ)のWチャンピオンを獲得。1990年日本グランプリは、フェラーリに移籍したプロストとマクラーレンのセナがスタート直後の第1コーナーで接触する大波乱。そんな中粘り強い走りを見せたラルースの鈴木亜久里が日本人初の表彰台となる3位フィニッシュ。1991年、中嶋悟は5年に渡るF1活動の幕を閉じ、92年にはHondaも数々の記録を打ち立てた第2期F1活動を休止。この輝かしい時代を彩った6台の名車が、鈴鹿サーキット50周年ファン感謝デーの会場で、その雄姿を再び披露してくれることになった。

■1986年 ウィリアムズFW11
1986年はウィリアムズHondaが他チームを圧倒。N・ピケとN・マンセルのコンビで見事コンストラクターズチャンピオンを獲得。誰もがドライバーズタイトルも獲得すると確信していた。だが、それを見届けようと観戦に訪れていた本田宗一郎氏の目前でわずかの差でA・プロストにタイトルを奪われてしまった。ウィリアムズFW11はHonda黄金期のスタートを飾ったと同時に、悔しい思いを残したマシンでもある。


■1988年 ロータス100T

1987年鈴鹿サーキットでF1日本グランプリが開催され、中嶋悟が日本人初のフル参戦ドライバーとして凱旋。一気にF1ブームが巻き起こった。翌88年Hondaはロータスとマクラーレンにエンジンを供給。マクラーレンがA・セナ、A・プロストのコンビで全16戦中15勝という圧倒的な強さを見せた。この陰に隠れてしまった感があるが、ロータス100Tを駆ったN・ピケ、中嶋も快走を見せてくれた。


■1989年 マクラーレンMP4/5 & ロータス101

1989年マクラーレンはA・セナ、A・プロストのチームメイト同士の争いが激化。日本グランプリ決勝でトップ争いをする2人がシケインで接触する大波乱。結果プロストがチャンピオンを獲得したが、この対決を演出したのがマクラーレンMP4/5だ。
N・ピケ、中嶋悟はロータス101で参戦したが、エンジンを変更してパワー不足に悩まされた。それでも雨の最終戦で中嶋が快走。自己最高の4位チェッカーを受けた。

■1990年 ラルースLC90
フェラーリに移籍したA・プロストとA・セナがスタート直後の第1コーナーで接触、波乱の幕開けとなった1990年の日本グランプリ。その後も波乱が続く中、粘りの走りを見せた鈴木亜久里がベネトンの2台(N・ピケ、R・モレノ)に続いて3位フィニッシュ。
日本人ドライバー初となる3位表彰台に登った。その快挙を後押ししたのがランボルギーニエンジンを搭載したラルースLC90だ。

■1992年 ミナルディM192
1992年はウィリアムズのN・マンセルが16戦中9勝の圧倒的な強さでチャンピオンを獲得した。この年G・モルビデッリとC・フィッティバルディの布陣で戦ったミナルディは苦戦を強いられながらも日本グランプリでフィッティパルディが6位入賞。シーズン唯一のポイントを獲得したときのマシンがランボルギーニエンジン搭載のミナルディM192だ。

※走行予定の車両はマシンコンディションにより走行できない場合がございます。
鈴鹿サーキットホームページにて特別ご招待券&モートピアパスポート半額優待券を配布中!
鈴鹿サーキット50周年ファン感謝デーに無料でご入場いただける特別招待券、およびモートピアパスポートが半額でご購入いただける優待券を鈴鹿サーキットホームページで配布しています。ホームページより印刷していただき、当日お持ちください。

* 鈴鹿サーキット50周年ファン感謝デーのサイトはこちら



トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:

検索

最新ニュース